「あの先生に辞められたら、終わりだ」
そう思いながら眠れない夜を過ごしたことが、一度でもあるだろうか。分院の診療も、患者対応も、スタッフへの指示も、すべてが雇われ院長一人の頭の中にある。書面はない。引き継ぎ先もない。辞意をほのめかされるたびに、理事長は本院の仕事を抱えたまま、答えの出ない問いに向き合う。
仲介業者に相談すると、返ってくる言葉はいつも同じ方向を向いている。法人を残す前提で、属人化を解く選択肢は、なかなか出てこない。
この記事では、首都圏近郊で在宅医療と分院を運営する内科系医療法人が、雇われ院長一人への依存から「役割で回る体制」へ移行した経緯を整理する。規模は常勤医師3名・スタッフ20名。分院開設から5年目の出来事だ。
相談に来られた頃(Before)
「あの先生に辞められたら終わりだ、と思っていました」
理事長がそう口にしたのは、初回の面談が始まってまだ10分も経たない頃だ。声に力はない。どこか遠くを見るような目で、手元のコーヒーには手をつけていない。
分院を開設して5年目。内科・在宅医療を軸に、常勤医師3名・スタッフ20名まで規模を広げてきた。数字だけ見れば、悪くない。ところが、分院の実態はほぼ一人の雇われ院長で成り立っている。
診療の判断も、訪問スケジュールの調整も、スタッフへの指示も、患者家族への説明も。「誰が決めるのか」と問われれば、答えはいつも同じ。院長が決める。院長に聞く。院長が動く。業務の流れも、意思決定の基準も、院長個人の頭の中にある。書面にはなっていない。共有もされていない。
その院長が、ある夜、「少し考えさせてください」と言った。
理事長は本院の診療を終えて帰宅し、夕食を済ませた後、いつものようにスマホを手に取る。未読のメッセージを確認し、翌日のスケジュールを見て、また院長のことを考える。眠れない。布団の中で天井を見ながら、最悪のシナリオを何度も頭の中で組み立てる。院長が抜けたら、訪問診療の体制はどうなるか。患者への説明は誰がするのか。スタッフは続けてくれるのか。
答えは出ない。
翌朝、本院の外来が始まる前に理事長は机に向かう。分院の運営を誰かに任せられないか、何か手はないか。「医療法人 分院 属人化」「雇われ院長 退職 リスク」。検索した先に出てくるのは、M&Aの仲介業者や、法人売却のコンサルばかりだ。
実際に一社、話を聞いてみた。担当者は丁寧だった。ただ、出てくる提案は売却の話ばかりで、「法人を残す前提で、属人化をどう解くか」という話には、なかなかたどり着かない。「先生、今が売り時ですよ」という言葉を聞いた瞬間、理事長は静かに話を打ち切る。
売りたいわけじゃない。残したい。でも、このままでは残せない。
本院の外来をこなしながら、分院の状況を頭の片隅で抱え続ける毎日。「なんというか、毎日が綱渡りで。分院のことを考えると、診療中も集中できない瞬間があるんです」と、理事長は言う。本院の患者に向き合いながら、頭の一部はずっと分院にある。そういう状態が、もう何か月も続いている。
なぜ、私たちを選んだのか
「あの先生に辞められたら終わりだ、と思っていました」
理事長が最初にそう口にしたのは、相談に来て間もない頃のことだ。声に力はない。どこか遠くを見るような表情で、静かに続けた。「だから、売るしかないのかなと」
それまでに話を聞いた相手は、仲介業者が中心だった。いずれも提案の方向は同じで、「今のうちに売却を」という流れに収束していく。法人を残す前提で話を組み立ててくれる相手は、どこにもいなかった。
売却が悪い選択肢というわけではない。ただ、理事長には引っかかりがあった。「本当に売るしかないのか。構造を変えれば、院長が替わっても続けられるんじゃないか」。その問いに、誰も正面から答えてくれない。
最初の面談で、「属人化を解く設計をすれば、院長が交代しても運営は止まらない」という見立てを示した。売却の是非を論じる前に、まず構造を見る、という順序だ。理事長は少し黙ってから、「それ、本当にできますか」と言った。
できるかどうかは、業務の中身を開いてみないとわからない。ただ、今の状態は「院長一人が全部持っている」から崩れるのであって、何が属人化しているかを整理すれば、分散の設計はできる。その説明を聞いて、理事長は初めて「残す選択肢」を具体的にイメージできた、と後に話してくれた。
決め手は、出口を前提にしなかったこと。それだけでよかった。
私たちがやったこと(時系列)
1か月目に着手したのは、院長が抱えている業務の全件棚卸しだ。
「診療以外に、毎日何をやっていますか」と問いかけると、院長はしばらく考え込む。「いや、言われてみると、全部ですね。訪問の調整も、スタッフへの指示も、患者家族からの電話も」。その言葉を起点に、1週間かけて業務を洗い出す。診療、管理、連絡調整、意思決定の4領域に分類し、それぞれについて「院長でなければ対応できないか」を一つひとつ確認する。結果として、院長が担っていた業務のうち、医師の判断を必要とするものは全体の3割程度。残りの7割は、権限と手順さえあれば他者が担える業務だ。
分散先の設計も、この月のうちに終わらせた。副院長格のスタッフ、本院の理事長、事務責任者の3者を軸に、それぞれが担う領域を書き出す。「誰が、何を、どこまで決めるか」を一枚の権限マップに落とし込み、院長と理事長の双方に確認を取る。「こんな整理、今まで誰もしてくれなかった」。理事長は、やや驚いた様子でそう言った。
2か月目は、棚卸し結果を文書に変える作業に入る。
訪問診療の同行記録フォーマット、緊急時の連絡フロー、スタッフへの指示系統。院長が「なんとなくやっていた」手順を、一つひとつ言語化していく。特に時間がかかったのは緊急時対応だ。「夜間に患者家族から連絡が来たとき、誰がどの順番で判断するか」を、実際の事例をもとにフローとして整理する。院長不在を前提に、理事長・事務責任者・現場リーダーの3層で意思決定が流れる構造にする。3層のどこかが機能しなくなっても、次の層が判断を引き取れるように設計した。
3か月目、マニュアルをスタッフに展開した。読んでもらうだけでなく、実際に使う場面を想定して説明会を開く。「こういう場面では、事務責任者に連絡してください。院長に直接かけるのは、このケースだけです」と、具体的な線引きを伝えた。スタッフ側の反応は、最初は戸惑いが先に立つ。「今まで何でも院長に聞いていたので」という声が複数出た。それ自体が、依存の深さを示している。
3か月目の終わりに、院長が短く言った。「なんか、少し楽になった気がします」。業務が減ったわけではない。ただ、「自分がいなければ何も動かない」という感覚が、少し薄れた。そういうことだろう。
4か月目以降は、月次経営会議に外部COOとして参加する形に移行した。毎月追うKPIは3つ。院長依存業務の移管率、マニュアル未整備項目数、スタッフの自己判断率だ。「今月、スタッフが自分で判断して動けた件数は何件か」を、会議のたびに現場リーダーから報告してもらう。数字が上がるたびに、体制が実際に機能していることが確認できる。
4か月目の後半には、院長交代を想定した引き継ぎ訓練を1回実施した。院長が不在という設定で、事務責任者と現場リーダーが判断を回す。実際にやってみると、「ここは誰が決めるか、まだ曖昧だった」という箇所が3点出た。訓練だから発見できた穴だ。翌月の会議で補足のフローを追加し、マニュアルを更新する。
「あの先生に辞められたら終わりだ、と思っていました」と理事長は言う。今は、その言葉の意味が変わっている。院長が交代しても、運営は止まらない。そういう体制が、ようやく形になった。
その後、何が変わったか(After)
4か月目の月次会議。理事長は手元のA4一枚を静かに眺める。本院と分院、それぞれの稼働件数、スタッフ別の業務負荷、翌月の採用計画。以前なら「分院の状況は院長に聞かないとわからない」と言っていた数字が、今は一枚の紙に並んでいる。
業務の棚卸しで見えてきたのは、分院の院長が担っていた業務のうち、純粋な医療判断に関わるものは全体の4割に満たなかったという事実だ。残りの6割、つまり在宅患者の訪問スケジュール調整、スタッフへの連絡・指示出し、備品発注の最終承認、外部との窓口対応。これらは役割として定義し直し、事務責任者と中堅スタッフに段階的に移管した。
2か月目に完成した意思決定フローは、判断の種類ごとに「誰が、何を、どの範囲まで決めてよいか」を一枚のシートに落とした。院長不在の日に緊急の問い合わせが入っても、スタッフは迷わず動ける。院長への確認依頼は、移管前の週15件前後から週4〜5件程度まで減っている。院長自身の反応も変わった。「以前は休みの日もスマホが手放せなかったんですが、先週の土曜は一度も鳴りませんでした」と、少し驚いたように話す。
理事長にとっての変化は、数字よりも感覚の部分が大きい。分院開設から5年、常に頭のどこかに「あの先生が辞めたら」という不安があった。辞意をほのめかされるたびに眠れない夜があり、慰留のために条件を上乗せし、それでも根本は何も変わらないという繰り返し。今は違う。院長が辞意を示したとしても、運営が止まる構造ではなくなっている。次の採用を落ち着いて検討できる状態だ。実際、直近の採用では面接を3名に絞り、月次会議の場で採用基準を事前に合意したうえで進めた。採用にかかった期間は前回より約3週間短縮されている。
理事長は月次会議の終わりにこう言った。
「あの先生に辞められたら終わりだ、と思っていました。でも今は、辞められても困るけど、終わりじゃないと思えている。それだけで、全然違うんですよね」
これから検討する方へ
「あの先生に辞められたら終わりだ、と思っていました」と理事長は話す。その言葉が出たのは、辞意をほのめかされた翌朝のことだ。
同じ不安を、今も抱えていないだろうか。「あの人がいなくなったら」という恐怖は、信頼の問題ではなく、構造の問題だ。依存は、いつの間にか積み上がる。気づいたときには、一人の退職が法人全体を揺るがす状態になっている。
先送りするほど、選択肢は狭まる。売却か、存続か。その二択を迫られる前に、「法人を残す前提で属人化を解けるか」を問えるかどうか。それが、理事長の手元に残る余地を決める。
私たちの視点
雇われ院長が辞めたら、終わり。そう感じていたのは、信頼が足りなかったからではない。構造が、そうなっていたからだ。
属人化は、誰かの悪意で生まれるわけではない。役割が定義されないまま、有能な人間が空白を埋め続けた結果として、静かに積み上がる。
法人を残す前提で、その構造を解けるか。その問いが、理事長の選択肢を一つ増やす。
同じ悩みに心当たりのある方は、外部COOのご相談から。まず現状を整理するところから始めます。









