リスク対応が属人から組織へ変わった歯科医院の記録

リスク対応が属人から組織へ変わった歯科医院の記録

クレームの電話が来るたびに、院長が出る。ヒヤリ・ハットが起きるたびに、院長が動く。スタッフ間でトラブルが起きれば、最後は院長が収める。

診療ユニット5台、スタッフ十数名。開業から10年、患者数は確かに増えた。でも、増えたのは患者数だけではない。

「何かあったらどうしよう」という感覚が、頭の片隅から離れない。そういう状態が、いつの間にか「普通」になっていないだろうか。

この記事は、地方都市郊外で一般歯科・小児歯科・口腔外科を手がける医療法人の事例をもとに書いている。リスク対応のすべてが院長個人に集中し、対応マニュアルも記録の仕組みも存在しないまま、問題が起きるたびに場当たり的に対処してきた歯科医院が、どのように「組織で受け止める体制」へと変わったか。その過程を記録したものだ。

相談に来られた頃(Before)

診療が終わった夜、院長は院長室の椅子に深く沈み込む。デスクの上には、今日の最後の患者から届いたクレームのメモ。受付スタッフが走り書きした内容を、もう三回読んでいる。

「処置の説明が足りなかった」。それだけのクレームだ。でも、誰が謝るのか。どう記録するのか。次に同じことが起きたとき、誰が動くのか。どこにも書いていない。

開業から10年が経つ。患者数は増えた。ユニットは5台に増え、スタッフも十数名になっている。規模が大きくなるにつれ、何かが少しずつ積み上がってきた。ヒヤリ・ハットの報告を口頭で聞くたびに「気をつけてください」と答える。患者からのクレームが入れば院長が直接電話をかける。スタッフ同士のトラブルが起きれば、双方から話を聞いて院長が判断する。全部、院長のところに来る。全部。

ある土曜日の昼過ぎ、診療の合間にスマホが鳴った。受付からだ。「患者さんが、ちょっと怒っていて」。院長は手袋を外し、廊下に出る。処置室の外で、患者が腕を組んでいる。院長は頭を下げ、説明し、なだめる。診療に戻るまで20分かかった。待合室には次の患者がいる。

その夜、院長は配偶者に言う。「なんというか、毎日が綱渡りで」。配偶者は黙って聞いている。それ以上、言葉が続かない。

問題が起きるたびに対処する。対処したら、終わる。記録は残らない。だから、同じようなクレームが半年後に来ても、前回どう対応したか誰も覚えていない。再発防止の話し合いが一度も成立しない。成立できる仕組みがないのだから、当然だ。

厚生労働省は、患者相談窓口の設置にあたり、担当者・責任者・対応手順を明確にし、苦情・相談を医療機関の安全対策見直しに活用するよう求めています。

出典: 厚生労働省|医政発第1007003号 – 平成14年10月7日

頭の中には、いつも「次は何が起きるか」という問いがある。ヒヤリ・ハットが続いたとき、「これが本当の事故になったら」と考える。SNSに何か書かれたら。スタッフが労務問題を持ち出してきたら。個人情報が漏れたら。考え始めると止まらない。止まらないまま、翌朝の診療が始まる。

「何かあったらどうしよう、という気持ちが、ずっとあった」と院長は振り返る。「でも、何をすればいいかわからないから、結局何もできないまま次の日になる」。

備えがない、という事実。それが、一番重かった。

なぜ、私たちを選んだのか

顧問契約の話が出るたびに、院長の頭をよぎるのは同じ疑問だ。「結局、書類を渡されて終わりじゃないか」。

開業から10年、患者数が増えるにつれてヒヤリ・ハットやクレームも増えてきた。その都度、院長が矢面に立ち、場当たり的に対応してきた。何かを変えなければと思い、医療経営系のセミナーに足を運んだこともある。顧問税理士に相談したこともある。ただ、返ってくるのはいつも「マニュアルを整備すると良いですよ」という助言だけで、では誰がいつどうやって作るのか、という話にはならなかった。

問題は助言の質ではない。実行する仕組みが、院内にそもそも存在しないことだった。

決め手になったのは、最初の面談での一言だ。「患者クレームと労務と個人情報、それぞれ別々に対応しようとすると、現場が混乱します。横断的に整理しないと、どれも中途半端になる」。縦割りで専門家を揃えても、現場では問題が重なって起きる。クレームの裏に労務上の問題が潜んでいることも、SNSへの不適切な投稿が個人情報漏洩と表裏一体であることも、実際の現場を知っていれば当然の視点だ。だが、それを一体として扱える相手は、これまでいなかった。

「いや、正直、誰かに『まずここから手をつけましょう』って言ってほしかっただけかもしれない」と院長は振り返る。「何から始めればいいかわからないまま、10年が過ぎていた」。

書類を渡して終わりではなく、運用が回るところまで現場に入って並走する。その一点が、他の選択肢にはなかった。

私たちがやったこと(時系列)

最初の作業は、リスクを「見える形」にすることだった。

1か月目、院長と向き合ったのは1枚のマトリクスだ。縦軸に「影響度」、横軸に「発生頻度」を取り、これまで院内で起きたヒヤリ・ハット、患者クレーム、スタッフとのトラブル、情報管理に関する出来事を、記憶と断片的なメモを手がかりに書き出していく。院長は途中で手を止め、「こんなに積み上がってたんですね」と言った。声に驚きがある。問題の数ではなく、自分がそのすべてを頭の中だけで抱えていたという事実に、改めて気づいた顔だ。整理の結果、優先して手をつける領域は4つに絞られた。患者クレーム、院内インシデント、労務トラブル、情報管理。この4領域を軸に、翌月以降の設計を進める。

2か月目は、各領域に「誰が・何を・どの順番で動くか」を1枚のフロー図に落とす作業に入った。たとえば患者クレームであれば、一次対応は受付スタッフが担い、内容を所定の記録用紙に書き留めたうえで、一定の基準を超える場合のみ院長に引き継ぐ。その基準も「感情的になっている」「医療行為への言及がある」「法的な話が出た」と箇条書きで明文化した。フロー図は1領域につきA4一枚。スタッフへの説明はミーティングの場で行い、「この流れで動いてください」と院長が直接伝える。説明後、ベテランの歯科衛生士から「これ、前からあったらよかったですよね」と声が上がった。責める言葉ではない。ただ、率直な感想だ。

3か月目に着手したのは、ヒヤリ・ハット報告の仕組みだ。書式はシンプルに設計した。「いつ・どこで・何が起きたか・どう対応したか・再発防止のために何ができるか」の5項目のみ。提出先は院長ではなく、まず診療主任の歯科衛生士に集約し、月1回の定例ミーティングで院長と共有する流れにした。提出先を院長に直結させないことには理由がある。「院長に報告する」という心理的ハードルが、ヒヤリ・ハットを「なかったこと」にする最大の原因になりやすいからだ。試験運用を開始した最初の月、報告書は3件上がってきた。院長は「3件しかないのか、多いのかよくわからない」と言ったが、それまでゼロだったことを考えれば、仕組みが動き始めた証拠だ。

4か月目、5か月目は定例ミーティングで運用を点検する時間に充てた。月1回・30分、院長と診療主任と事務担当が集まり、この期間に起きた事案を題材にフローの抜け漏れを確認する。ある月、患者から「説明が不十分だった」というクレームが入った。フロー通りに受付が一次対応し、記録も残っていた。ただ、引き継ぎのタイミングが曖昧だったことが記録から読み取れる。その場でフローの一か所に「引き継ぎ判断は30分以内に行う」という文言を加えた。手順書は、使いながら育てるものだ。

6か月目、院長が半日不在になる機会を使って、スタッフだけで初期対応が回るかどうかを確認した。クレームが1件入り、受付スタッフが記録を取り、診療主任が状況を判断し、院長への連絡を要しないと判断する。記録は翌日のミーティングで共有された。院長は後から経緯を読み、「これで十分だった」と言った。

「何かあったらどうしよう、で思考が止まっていたのが、起きる前に備えるという発想に変わりました。トラブルそのものより、備えがないことが一番のストレスだったと気づきました」と院長は語る。問題の数は変わっていない。変わったのは、問題が院長一人に向かってくる構造だ。

その後、何が変わったか(After)

変化は、静かに数字として現れ始めた。

支援開始から3か月が過ぎた頃、ヒヤリ・ハット報告が月に3件から5件のペースで上がるようになる。最初の数週間は「こんなことも書いていいんですか」とスタッフが確認しに来ていた。それが今では、所定の用紙に記入してボックスへ投函する流れが当たり前になっている。記録が蓄積されることで、月1回の定例ミーティングで「先月、器具の置き場所に関する報告が2件あったので、トレイの配置を変えます」という具体的な議論ができる。再発防止が、院長の頭の中だけでなく、組織の議題として扱われるようになった。そういう瞬間だ。

患者クレームの対応にも変化が出た。以前は受付スタッフが困惑した顔で診察室のドアをノックし、院長が診療の手を止めて出ていくことが週に1度や2度あった。今は、一次対応フローに沿ってスタッフが対応し、院長へのエスカレーションは内容が重大な案件に絞られている。導入から半年で、院長が直接クレーム対応に引き出される頻度は以前の3分の1程度に落ち着いた。

診療後の時間が、少し戻ってきた。

休日にスマートフォンを手に取る回数が減り、「何か起きていないか」という構えが薄れてきた。完全になくなったわけではない。ただ、以前のように「起きてから考える」ではなく、「フローがあるから任せられる」という感覚が院長の中に生まれている。小さいが、確かな違いだ。

院長はこう話す。「何かあったらどうしよう、で思考が止まっていたのが、起きる前に備えるという発想に変わりました。トラブルそのものより、備えがないことが一番のストレスだったと気づきました」

これから検討する方へ

「いつかやろう」と思いながら、気づけば10年が経つ。それが、リスク管理の現実ではないだろうか。

この院長も、同じだった。「何か起きたらどうしよう」という不安は常にあった。ただ、日々の診療が忙しく、手が回らない。そのうちに患者数が増え、スタッフも増え、ヒヤリ・ハットの数も増えた。備えのないまま規模だけが大きくなる。それが一番、組織として危うい状態だ。

院長が言う。「備えがないことが、一番のストレスだったと気づきました」。トラブルそのものより、何も決まっていない状態が消耗を生んでいた。先送りは、リスクを減らさない。静かに、積み上げていく。

今、同じ不安を抱えているなら、まず一つだけ問いを立ててほしい。「何か起きたとき、院長以外の誰かが動ける仕組みが、自院にあるか」と。

私たちの視点

リスク管理の問題は、突き詰めれば「院長一人に判断が集中している」という経営構造の問題だ。クレームが怖い、トラブルが怖い、という感情は入口にすぎない。

備えが整うと、怖さの質が変わる。「何かあったらどうしよう」から「何かあっても、最初の一手は決まっている」へ。その差は、院長の消耗量に直結する。

仕組みは、作った日から育てるもの。完成形を目指すより、更新し続けられる設計が先だ。

同じ悩みに心当たりのある方は、経営構造診断のご相談から。まず現状を整理するところから始めます。

この記事を書いた人

ミレニアム株式会社 経営支援チーム

医療法人・クリニックを中心に、経営改善、組織設計、人材定着、財務改善、マーケティング支援を行う専門チームです。

院長・理事長への業務集中、スタッフ退職、採用難、評価制度の未整備、事業承継、集患・広報など、医療機関に特有の経営課題に対し、現場の実態と経営構造の両面から課題を整理し、改善策を提案しています。

本メディアの記事は、医療法人経営やクリニック運営に関する実務知見をもとに、経営者が意思決定しやすい情報提供を目的として監修しています。